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クレニオ・ワーク

クレニオ・ワークの立場

クレニオワークは身体の生きる力、生きとし生けるものすべてに死ぬまで働き続けている力をより発揮できるようにサポートするワークです。治療と言っても、「病気をやっつける」「悪い部分を抑える」「取り除く」といった対処的医療とは全く正反対の、身体の中に常に働き続ける “ いのちの力 ” を見出す、つまり健全な働きをサポートする作業です。自己治癒力を高めるとか免疫力を高めるとか言ってしまえばそう捉える事もできますが、それでは医療的な見方から脱却していません。

四六時中休む事なく働き続けている力

クレニオ・ワーク受胎してから細胞が分裂し、様々な器官ができ、人間の形態を形作る力、誕生後、成長発達させる力、身体を維持する代謝の働き、病気や怪我を回復させる力、すべては同じ力が違った形に働いているものと考えています。つまり身体は1日24時間治療中と言えるし、それはただ生きていると言うのと同義語なのです。病気として扱われている症状の中には健全な身体の働きの一面であり、抑制したり、中断させたりするよりもむしろ、全うするように身体をサポートするべきものが多々あると思います。

それは、一見、不調のように思える状態が、均衡を取り戻すための身体の当然の働きであり、健康な状態であると見做せるのです。身体のどこかが切り傷を負えば、たちまちのうちに修復作業が始まるのです。日常茶飯の事はあまりにも当たり前すぎて、何とも思わないのです。開いた傷口が知らない間にくっ付いても全然不思議に思わないのですが、病気や急性、慢性の痛みに関しては、自然回復が当たり前と考えない人が多いのです。傷口と同じように疾病と呼ばれているものも治って当たり前として、治らない事を不思議に思わないのは何故でしょうか?当然回復して然るべきものが回復しないのには何か原因があるはずです。身体が働くべき仕事をしていないために病んでいるのか?それとも、病んでいるから身体が働かないのか?どちらにしても、それも医療的な考え方の範疇と言えるでしょう。身体はどんな時にも常に修復、回復、維持作業を行い続けています。なかなか回復を見せないのは、症状を消すために躍起になり、身体が経過に必要賭する環境と時間を十分に与えないのか、あるいは何らかの要因が回復の効率を悪く、又は悪化させているのかも知れません。治るべきものを治りにくくさせている原因があるはずです。

症状の原因

クレニオ・ワークそれは、そもそもその状態を引き起こした根源的な原因が相変わらず触れられずにいるために、表に現れた現象を消しても消しても、手を変え、品を変え身体に表現の場を求めると考えられないでしょうか? 一見何の関連性もないと思われる症状が、その人の心の中にある感情的な痼りや、頭の中にある強迫的固定観念を共通項としている、と考える事は突拍子もない事でしょうか?ウイルスやバクテリアと言った病原体と身体との相互作用と考えられる病気と、病原体が介在しない内的要因で起きる病気は別物なのでしょうか?病原体による感染も、同じ環境かにいながら発症するかしないかは、体力の問題だけなのでしょうか?

身体からの視点

クレニオ・ワーク交通事故で受けた様な外傷も、しばらくして一見、傷は修復されたかのように見えても、その受けた外力の影響を消すことなく、身体が作った代償をそのままにしておくと、体全体としての働きが変わったまま、時を経て元の原因とは因果関係が無いもののように現れてくる様々な症状は、予想以上に多くあります。外力によって起こされた身体の変化が元で歪められ、血液やリンパの栄養と老廃物の循環が疎外された動きや働きが何ヶ月も、何年も続けられた結果、あたかも突然原因不明の症状が現れたかのごとくに襲ってくる事も珍しい事ではありません。しかし、そのような因果関係を視野に入れていない場合は、原因不明の症状として片付けられてしまいます。過去に受けた外力が身体の中で滞りを作り、身体の正常な働きが大なり小なり阻害され続ければ、遅かれ、早かれ何らかの表れをするのです。身体の健全な働きはそういった影響を消し去ろうと働くのですが、事故によって身体の動きが変ってしまうほどの影響があると、無意識のうちにそれを補って、新しい動きを見につけてしまい癖のようになってしまいます。毎日同じ動作を繰り返す事で身体はその動作に見合った形を築いていきます。それは筋骨格系の動作だけではなく、体内の生理機能の変化を伴っているのです。そうなると、全く元の通りに戻すというのは難しくなります。その上、自分が元々身につけてきた姿勢や動作の習慣(これは、いちいち意識せずに日常の動作を行うためには必要なものとも言えますが)、食習慣、心理的習慣、さらに社会生活上の様々なストレス等、健全な働きを妨げる要因は枚挙に暇がありません。日々の代謝を維持するために費やしている力、生きている事を維持する力が、同様に身体を修復しているのです。つまり、日々の余計な労力の消費が大きいほど、妨げる要因が多いほど修復には時間がかかります。健全な働きを妨げる要因をかかえている事自体、不本意にもその要因を維持する事に生命力を漏洩させています。

悪い状態を保つために随分と力を無駄にしているのですから、これでは何時になったら健全な状態に戻れるのか、途方に暮れてしまいます。しかし、健全な働きを妨げるとは言え、それは自分を護る為の防衛の働きとしての一面をもっていたため、障害物であっても取り除かれるには、そのための準備と言うか、その時期が来ないと後のバランスを保てないのです。一方では、一つでも負担が減れば、その負担を維持するのに費やす力は要らなくなり、そのために出た余剰は次の修復作業に費やす事が出来るのです。つまり、取り除いて身体が回復に向かうものと、返って負担になるものとの間で、身体の中にある種自然な修復の順序があるのです。

医療とは異なる立場

クレニオ・ワーク薬物も正確に特定の個人にあった物質を正確な量だけ投与する事が出来れば、身体の回復に大いに貢献すると思いますが、ある負担を解消するために採った薬物の後処理をするために身体が余分に働かせられるとなると、薬物は身体にとって、余計なお世話になりかねません。狙った効果以外の影響が起こっても、一般には副作用と呼ばれますが、身体にとっては主作用も副作用もなくただ与えられた刺激に反応しているだけです。同じ物質を投与しても、その反応はやはり百人百用で、人間が勝手に副次的と決めた作用のおかげで、どれほど身体に負担を強いている事やら、考えると恐ろしいばかりです。

外科的に身体の悪い部分を取り除く行為も、身体は切除された部分、切開された部分に対し外力による障害と同じように修復の作業をし始めるのです。手術の痕は怪我の痕とおなじです。切った場所は外傷で着いた傷となんら変わりなく(手術の切り口はシャープで塞がり易いかも知れませんが)、目に見える痕の大小はあるにしても、引き攣れ癒着することは避けられません。外科手術は大した怪我であり、自分で修復不可能で、取り除く事が必要不可欠と判断された部分を、新たな障害と引き換えに切除するのだという事を認識しておくべきでしょう。機能不全になった部分を人工的なものと取り替えるにしても、体は取り替えたパーツを異物として捉えるでしょう。もちろん身体は新たに付け加えられた異物を自分の都合いいように同化し、使いこなす術も見つけるでしょうから、近視眼的に悪い所を斬ったり貼ったりするのではなく、その人全体の中でそれがどういう役割を果たすか、10年、20年後に人工物が入った部分だけでなく、体全体がどうなっているかを見越した展望を持ちつつ、止むを得ない措置として、大変有効だと思います。人工物のおかげで痛みから解放された人の人生は、それまでと比べると 余程楽に感じられるでしょう。自分で修復できない機関の修復をすることは命を永らえるのに不可欠な事も多々あると思います。もちろん一刻の猶予を争う場合は、何にも変えられないでしょう。

医療の進歩は目まぐるしく、すばらしい発展を遂げている一方、人間の命の持つ力、健全な働きを妨げないように医療を応用するという方向へは向いていないような印象を受けてしまうのは残念です。人の健全はかえりみられず、病気や障害が主役になっている印象がどうしても強く、ホリスティックと呼ばれるものでさえ、病気や障害を健全な働きの一部として捉える、人の全体像を視野にいれた見方はされていない気がします。色んな角度から見てはいるものの、自然治癒力を発揮させて病気を治す、病気に対抗するという考えは、アロパシー(対症療法)のバリエーションと言えるでしょう。

何故、薬物を投与しないと治らないのか?何故、切除しないでは治らないのか?人には自分で癒せる能力に限界があり、仕方の無い処置なのか?身体は常に回復する方向に向かっている事を知り、それをサポートするだけでは追いつかないのか?そんな考えは医療の部外者の素人的戯言なのか?命の働きに素人も玄人も、専門家も無いのではないか?                                      すべての医療は身体が自分で修復し、自分で生きていく能力が元にあって始めて成り立つ事柄です。何処まで行っても、何を施しても、治しているのは医者でも薬でも無く(もちろん我々手技療法者でもありません)、自分の中に働いている生きる力であることを認識している人がどれぐらいいるでしょう?我々は体の事をすべて知り尽くしているのだろうか?それは疑いも無く“NO”です。身体自身に生来備わっている叡智と比べれば、どんな医療のプロも素人と五十歩、百歩と言えるのではないでしょうか?素人からすると大変な五十歩でも、身体の叡智からしてこの五十歩がどの程度のものなのかは判りません。30年ほど前の常識が、現在では非常識になっている様な事を考えると、今の医療の常識も30年後には非常識になっている可能性は多分にあります。

生きとし生けるもの生来の働き

頭蓋骨の模型我々は、クレニオワークを通して、身体に対して真に謙虚で、身体に委ね、身体から支持を仰いで、身体がやろうとしている事に、出来る限り邪魔にならないように、身体の力が十全に発揮できるための道を空けようとしているのです。

クレニオ(頭蓋)と呼んではいますが、対象は身体全体、否、人全体です。ただ、頭部は身体全体に大きく影響しているので、特に注目している部位ではあります。
我々が行う施術は、頭蓋骨やそれを包んでいる骨膜、内側で骨膜と一つになって脳を包んでいる髄膜と脳の実質、脳室から分泌される脳脊髄液、それらが個々に思い思いに、しかも全員一致で一つの息(ブレス・オブ・ライフ)の下でシンクロし、息が出来るように、サポートします。それぞれの部分が自由に動き変化できるようなバランスを膜緊張バランス法、液緊張バランス方と呼ばれるテクニックを使って、バランス空間を保つようにします。バランス空間とは、身体の中で起こるあらゆるタイプの呼吸(肺呼吸に限らず広義の呼吸)が滞りなく身体中に広がることの出来る空間であり、そのバランス空間に於いて身体の生きる力がより力を発揮されると考えます。

人間の受精卵が細胞分裂を繰り返し、外胚葉、内胚葉、中胚葉から身体のあらゆる器官が分化、発達してきた事、それが起こるための時と位置(空間)に寸分の違いも無い事を考えると、遺伝子情報によって特定のたんぱく質を生産する事イコール人間の姿かたちを決定する事とは考えがたいのです。人が人の姿かたちを表現するための青写真は遺伝子ではない何者かのはずです。その青写真によって、私達が私達であることの奇跡は未知のままなのです。
遺伝子は個性を演出しますが、それとは別にブレス・オブ・ライフがこの青写真に命を吹き込み、完全な人間としての原型を表現しようとするのです。この私達を形創った力は私達が生まれ、成長と遂げた後も、繰り返し完璧な表現をしようと働き続けているのです。 ただし私達は老化して行きます。日々完璧な状態を表現しようと新陳代謝が行われている傍ら、刻一刻と微妙な変化を続けているのです。この生きている事の神秘に対し手を差し伸べ、神秘のままに、あるがままを全うする事に対してサポートを試みようというのです。でも、体が治るのは術者の手技技術とは関係の無い力のおかげであり、誰もが生きている限り行使し続けている、当たり前の力なのです。

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